今回も、高校時代の話です。
いい加減しつこいと思いますが、今日は暇なので書きます(笑)
初めての全国大会が終わり、熊本から次の合宿地、長野県に向かいました。
今と違い、飛行機や電車などの交通機関に詳しくないため、
ただ監督に付いて行くだけです。
ところが、長野に行くはずが、監督に連れられるがまま、
何故か東京都内のホテルにチェックインしました。
部屋割が決まり、各自荷物を置いたあと、監督の部屋に集合になりました。
なにがなんだか分からず部屋に集合したところで、監督が話し始めました。
「今回のインターハイ、敗者復活からベスト16。よく頑張った。
なので、明日は皆でディズニーランド。」
こんな事もあるのか!!
弘前工業で良かった!!
高校生が2週間以上、全国を移動しながら集団生活をするとストレスも溜まります。
慣れない1年生は尚更です。
そんな中でのディズニーランド!!
最高の息抜きです。
弘前工業の名前入りTシャツとハーフパンツで大いにはしゃぎました。
夢の国で騒いだ後は、長野で合宿が待っています。
長野合宿は、日体大が中心となり、全国から高校の新人チームが集まって日体大カップというリーグ戦を行います。
秋の国体が控えているレギュラー組は、日体大と練習試合を行います。
夕食後、全チームがホテルの大広間に集められ、
当時日体大監督の森田淳悟さん(ミュンヘン五輪金メダリスト)から講話があり、
ミュンヘン五輪までのドキュメント「ミュンヘンへの道」を鑑賞しました。
「常識の延長線上には常識しかない。」
「金メダルを狙うには非常識を積み重ねていくしかない。」
故・松平元監督の言葉ですが、当時高校1年の自分には、あまり意味がわかりませんでした。
しかし、独立開業し、様々な準備やこれからの事を真剣に考えるようになり、
この言葉はとても深い意味があると感じています。
そんなこんなで、普通の高校生が出来ない経験をさせて頂きながら、高校3年になりました。
毎日がとても充実していましたが、バレーの結果は伴わず、
10年ぶりに県予選で敗退、春高バレー・インターハイに出場できませんでした。
このことは、未だに心の中で残っています。
人生で初めての挫折といっていいかもしれません。
しかし、この春高予選前の出来事が将来に大きく影響しました。
春高予選の3週間前、正セッターがケガをし、私が急遽セッターを務めることになりました。
その時、私も手首痛めてしまい、以前から通っていた接骨院にお世話になっていました。
当然、練習しながらなので治りも悪く、試合まで時間もありませんでした。
すると、接骨院の先生が、私のために練習後の夜9時頃に治療院を開け、
時間をかけて治療してくれました。
この事に感動し、スポーツトレーナーになって選手のサポートをしたいと思うようになりました。
高校3年間で、勝ちも負けも経験し、いよいよ進路を決める時期になりました。
ありがたいことに大学のお話も頂きましたが、私のバレーのレベルでは通用しないと分かっていたので、
お断りさせて頂き、本格的にトレーナーを目指すことにしました。
とは言っても、何をすればトレーナーになれるのか全くわからず、
スポーツというキーワードで求人を検索したところ、
株式会社グローバルスポーツ医学研究の求人がトップに出てきたのです。
名前もカッコいいし、求人数60人だから入れるかも!
といった単純な理由で問い合わせしたところ、
あれよあれよという間に面接日が決まってしまいました。
夜行バスで上京し、当時東京駅八重洲南口にあった本部に向かいました。
簡単な筆記試験の後、面接がありました。
そこには現社長や役員の方がいらっしゃり、緊張がピークに達していました。
どんなことを聞かれるのか、上手く答えられるか、あれこれ考えていました。
すると、聞かれたのはバレーのことばかり(笑)
「なんで大学行かないの?」
と聞かれ、
「私はそんなレベルでは無いので、バレーでは通用しないです。」
と正直に答えました。
数年後、その方々と食事をした時に聞いたのですが、
その答えで合格したらしいです(笑)
上司曰く、
「トレーナーになりたいという奴はスポーツ選手のなし崩れが多い。ケガで諦めたとか言い訳する奴が多いなか、
お前は言い訳せず正直に答えたから採用した。」
とのことでした(笑)
こうして、2004年4月からグローバルスポーツ医学研究にお世話になることになりました。
今回はここまでです。
次回から社会人になってからのお話をしたいと思います。
では!